- (ニクソン・ショック以降の危機が重要である理由)
- ニクソン・ショックの衝撃
- 中南米危機危機にみる累積債務問題の重石
- プラザ合意の落し物
- ブラック・マンデーの悪夢
- 日本のバブル崩壊による痛手
- ポンド危機で突かれた欧州通貨制度の綻び
- P&Gなど事故多発…デリバティブズの挫折
- アジア通貨危機で再び
- ITバブル崩壊の狂騒
- リーマン危機に連なる“ゲーム"
- ギリシャ財政不安でユーロ絶体絶命
- 終わらないフラジャイル・ワールド
(ニクソン・ショック以降の危機が重要である理由)
2つの理由 | 背景① | 背景② |
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危機が発生するインターバルが短くなっている | 銀行や資産運用業といった金融セクターが保有する資産や負債が急拡大している | 1970年代以降の国際資本市場の拡大 |
資本市場や実体経済に対する影響の波及経路が、わかりづらくなっている | デリバティブや証券化などの先端金融技術が急速に発展したこと |
ニクソン・ショックの衝撃
〜 現代が“金離れ"したとき
1944年 | 7月 | ブレトン・ウッズ体制スタート |
○1930年代の大恐慌の反省に基づく、世界経済の安定化を目指す。 ○世界銀行の設立(経済復興のための長期的資金援助) ○IMFの設立(為替相場安定化のための短期的資金供与) ○「金・ドル本位制」の導入 |
1960年 | 12月 | ベトナム戦争(〜1975年4月終結) |
○軍事支出や経済援助出で政府部門の赤字拡大→ドル海外流出 ○【トリフィンのジレンマ】アメリカが経常赤字でドルを垂れ流さない限り国際的な流動性は保てない一方、そうした状況が続けばドルの信認は低下してしまう。 |
1971年 | 8月 | ニクソン声明 |
○フランスやイギリスが、ドルの金への交換を要求 ↓ ○ドルと金の兌換停止 ○輸入課徴金10% ←日本にとって衝撃的 |
12月 | スミソニアン協定 |
○金兌換停止のまま新たなドルとの交換レートを定める。 ○1ドル360円 → 308円 ○1年半ともたず、主要国は変動相場制に移行。 |
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1973年 | 3月 | 変動相場制へ移行 |
国際金融のトリレンマ
日英米 | ユーロ圏内 | 中国 | |
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固定相場 | × | ○ | ○ |
自由な資本移動 | ○ | ○ | × |
独自の金融政策 | ○ | × | ○ |
中南米危機危機にみる累積債務問題の重石
〜 原油が世界をかき回す
石油価格の急上昇
↓
インフレ率の加速
↓
アメリカの高金利政策
↓
新興国の
・輸入額の急増
・金利支払額の急増
・外貨準備の急減
・成長率の急低下
1960年 | OPECが石油価格の決定力を奪取 |
○価格決定権 セブン・シスターズ(大手国際石油資本7社) └ 消費国の利益優先 ↓ OPEC(石油輸出国機構) |
1973年 | 第一次オイルショック |
○第4次中東戦争(1973年10月) アメリカがイスラエルを支持 ↓ OPECが対抗措置として、 1バレル3.0ドル → 5.12ドル → 11.65ドル |
1979年 | 第二次オイルショック |
○イラン革命(1979年) イランの石油生産が停止 ↓ OPECが石油価格を引上げ → 1バレル28ドル ○(1970年代)石油消費国の先進国はスタグフレーション(高インフレ+リセッション) |
1981年 |
ポーランドが債務不履行を表明 (リスケジュール案件計13件) |
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1982年 |
アルゼンチンが債務不履行を表明 メキシコが債務のリスケジュール要請 (リスケジュール案件計13件) |
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1983年 |
ブラジルが対外債務支払いの全面停止 (リスケジュール案件計31件) |
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1985年 | ベイカー構想公表 |
財政健全化よりも経済成長を優先 ①債務国による構造調整政策の採用 ②IMFや世銀などの支援額を増加 ③民間銀行による新規融資 ↓ 民間銀行は融資削減に動く。 |
1987年 | ブラジルがモラトリアム宣言 | |
1989年 |
ブレイディ構想公表 (適用第1号はメキシコ) |
債務国の負担軽減優先 ①債務国は民営化などを通じて資本流入を促す。 ②商業銀行は債権放棄を検討する。 ③IMFや世銀は証券化された債務の元利保証を行なう。 |
1993年 | ブラジルがブレディ構想導入(〜2007年に終了) |
石油価格が新興国に影響する2つのルート
オイルショックは、
まず、オイルダラーというかたちで「新興国への資金流入」を促す。
その後、原油価格の上昇で「貿易収支の悪化」をもたらし、
インフレ対策としての高金利政策によって「利払い不能の状態」を作り上げた。
プラザ合意の落し物
〜 強いドルはアメリカの国益?
1977年 | 日米カラーテレビOMA(市場秩序維持)協定締結 | |
1981年 |
レーガン大統領就任 日本が自動車の対米輸出自主規制を開始 |
レーガノミクス (スタグフレーション対策) ○大幅減税 ○軍事費拡大 ○国防以外の財政支出削減 ○規制緩和 ↓ 失敗 「双子の赤字」が定着 ↓ 対円・対マルクの為替レート調整が必要に。 |
1984年 | 日米円ドル委員を立上げ(合計6回開催) | |
1985年 | 中曽根・レーガン合意 | |
MOSS(市場志向型分野別)協議 | ||
プラザ合意(3年にわたるドル下げの契機) | ||
1987年 |
ルーブル合意 (1988年~:1ドル120円台の小康状態に) |
ドルの想定外の大幅下落を阻止しようとしたが失敗。 |
プラザ合意(1985年)
-
背景
- ニクソン・ショックやスミソニアン協定でドルが大幅に切下げられたにもかかわらず、アメリカがその後にインフレ対策として採った高金利政策でドル高基調に戻っていた。
- レーガン政権下、アメリカは経常赤字と財政赤字という「双子の赤字」が定着。国内の批判の矛先が、経常黒字国のドイツや日本に向けられた。
-
プラザ合意後
- 想定以上にドルが下落。協調介入でも止められなかった。
- 円の価値は対ドルで合意前の2倍に。
- 円高不況への対策として日銀が積極的な緩和策を採り、政府が公共事業の拡大など大幅な財政政策を採る。のちのバブル経済を生む。
ブラック・マンデーの悪夢
〜 リスク・マネジメントの始まり
1986年 | 2月 | FRB内部でクーデター勃発 |
○利下げに反対するボルカーFRB議長。 ○レーガン大統領に指名されていたFRB理事らが唐突に利下げの投票を要求し、賛成多数で可決してしまう。 ○ボルカーの次はグリーンスパン。機動的な金融政策を通じて「グレート・モデレーション」(低インフレ+高成長)を演出。 |
4月 | 日本で前川レポート発表 |
○アメリカから、ドル安だけでなく、内需拡大も求められるようになる。 ○→輸出型から内需型へ成長モデル転換を目指す「前川レポート」を発表。 |
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1987年 | 2月 | 日銀が公定歩合を史上最低の2.5%に引下げ |
○下げ止まらなくなったドルへの対応。 ○財テクに拍車をかける。 ○長期金利が低下 → 国債バブル → 国債先物で利益を上げる企業も出てくる |
8月 |
ボルカーFRB議長の辞任(6月発表) グリーンスパン新議長就任 |
○グリーンスパン = グレート・モデレーション(超安定化) ○ただし、労働生産性の向上だけでなく、負債の拡張を利用した脆弱な成長過程でもあった。 |
|
9月 | 日本でタテホ・ショック |
○鉄工所の耐火煉瓦材料として利用される電融マグネシアの世界的メーカー「タテホ化学工業」。 ○国債の急落(5月 2.55% → 10月 6%) → 国債先物で286億円の損失。(年間売上の4倍) |
|
アメリカが公定歩合を6.0%に引上げ | |||
10月 | ブラック・マンデー(10月19日) |
○実体経済の悪化をともなう暴落ではなく、株価は急反発した。 ○直接的な引き金は、「ポートフォリオ・インシュランス」による売り。 |
日本のバブル崩壊による痛手
〜 邦銀の凋落が始まった
1983年 | 日本で国債の窓口販売解禁 | |
1984年 | 日本の為替市場で実需原則撤廃 | |
1989年末 | 日経平均3万8915円87銭とピークに | |
1992年 |
伊予銀行が東邦相互銀行を吸収 (預金保険制度の適用第1号。その後、続々と金融破綻が続く。) |
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1995年 | 住専問題の処理策が閣議決定 | |
1997年 |
三洋証券破綻 山一證券廃業 北海道拓殖銀行破綻 |
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2003年 |
りそな銀行への公的資金投入 (日本の金融問題が一応決着) |
特金(トッキン)=特定金銭信託
- 委託者(銀行、機関投資家、事業法人)は、信託銀行に金銭を預け、信託銀行に運用指図する。
- もともと保有していた簿価の低い株と分離して運用が可能。
住専=住宅金融専門会社
- 個人向け住宅ローン専門であったが、競争が激しくなり、企業の不動産事業に対する融資を拡大。
- 1995年8月、総資産の半分である6兆円の損失が判明。
銀行離れ
企業の銀行離れ
○社債市場の自由化
○転換社債やワラント債を使ったゼロコスト資金調達
○バブル景気
↓
邦銀
○海外進出 …市場感覚に乏しく失敗
○不動産関連融資 …不動産価格上昇頼み
ポンド危機で突かれた欧州通貨制度の綻び
〜 ヘッジファンドの台頭と通貨制度の脆弱さ
1920年代 | 当時から共通通貨への提言がなされていた。 | |
1945年~ | 第2次世界大戦(1939-1945)後には、為替レートを安定させる必要性が叫ばれていた。 | |
1979年 | 欧州通貨制度(EMS)の発足 | |
欧州通貨単位(ECU)の新設(通貨バスケット;のちのユーロ) | ||
為替相場メカニズム(ERM)の導入 | ||
1990年 | 東西ドイツ統合 |
旧東ドイツへの支援 ↓ 財政支出増、インフレ ↓ 金融引締め ↓ マルク高 ↓ 為替相場メカニズムに緊張 |
1991年 | フィンランド・マルカの大幅切下げ | |
1992年 | スウェーデン・クローネが為替相場メカニズム(ERM)離脱 | |
マーストリヒト条約調印 | ||
ポンド危機 | ジョージ・ソロス率いるクォンタムファンドがポンド売り。 | |
イギリスが敗北宣言し、ERM離脱 | ||
イタリア・リアがERM離脱 | ||
1993年 | マーストリヒト条約に基づいて欧州連合(EU)発足 | |
1994年 | 欧州通貨機構(EMI)設立(ECBの前身) | |
1999年 | 欧州共通通貨ユーロ導入 |
P&Gなど事故多発…デリバティブズの挫折
〜 金融工学の暴走とリーマン危機への伏線
1994年 | 2月 | FRBが5年ぶりに利上げ | |
P&Gのデリバティブ事故 |
○同社が有利子負債コスト引下げのために利用したドル建て金利スワップの支払いコストが、利上げによって急上昇したこと。 ○スワップをアレンジしたバンカース・トラストは、リスクを十分説明しなかったとして損害買収請求された。 ○同様のトラブルが多発。 |
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3〜5月 | FRBがさらなる利上げ | ||
10月 | P&Gがバンカース・トラストに損害賠償請求訴訟 | ||
12月 | ロサンゼルス州オレンジ郡倒産 | ||
1995年 | ベアリング・ブラザーズを蘭INGが買収 | ||
1998年 | バンカース・トラストをドイツ銀行が買収 |
- リスク管理手段であったスワップやオプションといったデリバティブが、投資目的として積極的に利用される。
-
銀行内部での法外な取引にブレーキがかからなくなった背景。
- 1990年代に株主からの利益要請圧力が強まり、高い株主資本収益率(ROE)がもとめられはじめた環境。
アジア通貨危機で再び
〜 新興国の連鎖破綻 新興国リスクとドル依存体制の限界
1990年代 | 「東アジアの奇跡」 |
○「グレート・モデレーション」を最大限に利用。 ○ドルペッグ制を利用し、為替リスクを抑制して、海外筋から国内金利より低金利のドルを借入れ。 |
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1994年 | メキシコでテキーラ・ショック | ||
LTCMの立上げ | |||
1997年 | 5月 | タイ・バーツ売りに始まるアジア通貨危機勃発 |
【背景】 ○「ドル建ての短期資本」を調達して「現地通貨の長期投資」に充てていた。 ○(通貨と期間の2点において「ダブル・ミスマッチ」) ↓ ○ドル高で持続不能に |
7月 | バーツが暴落、ドルペッグ制から変動相場制に移行 |
○1ドル32バーツ → 54バーツ ○株価指数 90%暴落 |
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マレーシアが変動相場制に移行、リンギット急落 |
【他国との違い】IMF支援に嫌悪感を表明し、支援を拒否。ソロスとも論戦。 ↓ 投資家は懸念。 通貨や株価の下落は加速。 |
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韓国の超亜自動車倒産 | |||
8月 | タイ政府がIMFに支援要請 |
IMFからの要請 = 経常黒字、財政黒字、インフレ抑制、政府歳出削減、引き締め政策 ↓ 内需に打撃 1998年の実質GDPは−10.5% |
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インドネシアが変動相場制に移行、ルピア急落 | |||
10月 | IMF、世銀などがインドネシアを支援 | ||
11月 | 韓国政府がIMFに支援要請 | ||
1998年 | 7月 | IMFがロシアを緊急支援 | |
ロシアが対外債務のモラトリアムとルーブル切下げ発表 |
「米国債売り・ロシア国債買い」をしていたLTCMに打撃 ↓ NY連銀(マクドナー総裁)が金融機関に支援要請 |
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9月 | マレーシアが資本規制、為替レートを固定化 |
1999年以降、徐々に景気回復。 外部環境(欧米でのIT需要 & IMF支援を受けた他のアジア諸国の経済回復)のおかげ? |
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11月 | IMFがブラジルへの支援パッケージ発表 | ||
1999年 | ブラジルが変動相場制に移行 | ||
アジア諸国の驚異的な回復 |
輸出を中心とした復活。 韓国 :+10.9%成長 マレーシア:+6.1%成長 タイ :+4.4%成長 インドネシア:+4.9%成長(2000年) |
ITバブル崩壊の狂騒
〜 「ニューエコノミー」という幻想と変貌する金融機関
1996年 | 12月 | グリーンスパンFRB議長が株価の過熱感を指摘 | |
1999年 | ナスダックの年間上昇率=86% | ||
2000年 | 3月 | シラー教授『根拠なき熱狂』出版、株価はピークアウト | |
2001年 | 9月 | アメリカ同時多発テロ勃発 | |
12月 | エンロン破綻 |
エネルギー企業。当時アメリカ史上最大規模の破綻。 デリバティブで業績を伸ばしたが、実態は架空取引や粉飾決算まみれ。 |
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2002年 | 1月 | グローバル・クロッシング破綻 |
光ファイバー大手。海底光ファイバー敷設で脚光を浴びる。 ITバブル崩壊で業績悪化。 |
7月 | ワールドコム破綻 |
国際的な通信会社。 粉飾会計。 エンロンを超えるアメリカ史上最大規模の破綻に。 |
|
サーベンス・オクスレー(SOX)法成立 |
「上場企業会計改革及び投資家保護法」 投資家保護を目的として上場企業にガバナンスの強化を義務付ける法律。 監査の独立性、財務情報の開示、内部統制、説明責任、内部告発者の保護、年次報告書に署名 |
||
10月 | ナスダック総合指数が急落 | 最高値から78%下落 | |
2003年 | 4月 | 日本でもJ-SOX法による規制強化 | |
2004年 | 10月 | コクド一連の不祥事が発覚 | |
2005年 | 4月 | カネボウの粉飾決算が発覚 | |
2006年 | 1月 | ライブドア・ショック |
ようやく日本経済に再生の兆しがみえはじめ、新興企業による成長ストーリーがささやかれ始めた矢先のこと。 挫折感と閉塞感がデフレ意識を強めていくひとつの遠因に。 |
ITバブルの裏で進行していた金融ドラマ
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商業銀行と投資銀行の接近
- 商業銀行は、従来のような融資拡大路線ではなく、投資銀行ビジネスに方向転換。
- 投資銀行は、M&A業務の優位性を伸ばすべく、商業銀行並の融資力を持ちたいと考えていた。
1993年 | グラス・スティーガル法 | 商業銀行業と投資銀行業の分離を規定。 |
1999年 | グラム・リーチ・ブライリー法 |
グラス・スティーガル法で定めた業務の分離を無効に。 →シティグループ、JPモルガン・チェース |
融資と有価証券の双方の市場の主導権を握った大手米銀は、「信用リスク」をビジネスにする方向性を開拓。 【背景】 自己資本比率の向上のために資産を抑制するため 手数料ビジネスを拡大させROEを高めるため →クレジット・デリバティブ(CDSなど)や証券化商品が新機軸。 |
リーマン危機に連なる“ゲーム"
〜 アメリカ型金融モデルの崩壊
2001年1月 〜2009年1月 |
ブッシュ政権 |
○「オーナーシップ社会構想」…マイノリティゃ低所得者層への持ち家奨励。 ○ITバブル崩壊や同時多発テロ後の経済立て直しに向けた金融緩和。 ↓ ○サブプライムローンの拡大。 ○それを組み込んだ証券化商品が売れる。 |
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2006年 | 政策金利 |
2003年6月に1.0%まで引下げ その後、引き締めモード 2006年6月には5.25% →金利支払いに支障 |
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2007年 | 住宅価格値下りの始まり | 1997年以降の10年間でアメリカの住宅価格指数は124%上昇。 | |
8月 | パリバ・ショック |
○金融危機の幕開け。 ○「グループ内3つのファンドでは投資家の解約請求に応じない」と発表。 |
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2008年 | 5月 | ベア・スターンズをJPモルガンが買収 | |
7月 | ファニーメイなど政府支援機関が国有化 | ||
9月 | リーマン・ブラザーズ破綻 | ○史上最大の破綻。資産総額6390億ドル。 | |
10月 | グリーンスパンFRB議長が議会で危機対応いついて証言 | ||
2009年 | 1月 | メリルリンチをバンク・オブ・アメリカが買収 | |
2010年 | 7月 | アメリカで金融規制改革法 (ドット・フランク法) |
○金融危機の反省から。 ○金融システム・リスクの最小化。 ○デリバティブ市場の透明性強化。 ○消費者保護。 |
米金融機関のビジネスモデル
ベア・スターンズ |
○1923年創立。 ○得意分野:モーゲージ担保証券の組成や販売。 ○顧客は、海外の機関投資家からヘッジファンドまで。 ○手数料ビジネスから、資金を借りて資産を保有する戦略へ。レバレッジ経営。約36倍。 ○経営危機の契機は、傘下の2つのヘッジファンドの破綻。 |
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リーマン・ブラザーズ |
○1850年創立。 ○アメリカの投資銀行で第4位(ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリルリンチ) ○資金を借りて資産を保有する戦略へ。 ○資産の多くは、商業用不動産担保融資を裏付けとする証券化商品(CMBS)。 ○史上最大の破綻。資産総額6390億ドル。 |
ギリシャ財政不安でユーロ絶体絶命
〜 ユーロ圏の南北問題と問われ続ける共同体理念
2009年 | 10月 | ギリシャで新政権が財政問題を暴露 | |
2010年 | 1月 | 欧州委員会がギリシャの統計不備を指摘 | |
4月 | S&Pがギリシャを「投資不適格(BB+)」に格下げ | ||
5月 | EU、IMF、ECBがギリシャへの1100億ユーロ支援 | ○トロイカ体制。 | |
11月 | アイルランドが支援要請 | ||
2011年 | 4月 | ポルトガルが支援要請 | |
11月 | ギリシャがユーロ離脱をめぐる国民投票実施を発表(その後撤回) | ||
2012年 | 2月 | EU、IMF、ECBがギリシャへの1300億ユーロ追加支援 (投資家による債権放棄あり) |
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6月 | スペインが支援要請 | ||
11月 | ドラギECB総裁が「何でもやる」と発言 | 南欧国債をECBが買い入れる準備があることを世界に向けて宣言。欧州市場の懸念が払拭される。 |
- ドイツやフランスの投資家にとって、高金利のギリシャ国債などは「為替リスクゼロ、信用リスクゼロ」という願ってもいない投資対象だった。
- ギリシャの対外債務のうち、60%をドイツとフランスの金融機関が保有。債権放棄が難しかった。
- 欧州金融安定ファシリティ(EFSF)
- 証券市場プログラム(SMP)
- 国債買入れプログラム(OMT)
終わらないフラジャイル・ワールド
〜 次なる震源地はどこだ?
2012年 | 12月 | 第2次安倍政権スタート、 アベノミクス相場が本格化 |
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2013年 | 4月 | 黒田日銀総裁が「異次元緩和」を発表 | |
5月 | バーナンキ・ショックで株価が急落、 長期金利が上昇 |
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6月 | FOMC会見でバーナンキ議長が緩和縮小を明言し、特に新興国市場でリスクオフが強まる |
○財政赤字・経常赤字・対外債務大の「フラジャイル・ファイブ」(ブラジル、インド、インドネシア、トルコ、南アフリカ)が狙い撃ち。 ○経常黒字・対外債務小の中国・ロシアは対象外。 |
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11月 | ウクライナがEU加盟作業を停止 | ||
12月 | ウクライナで親ロ路線に反発する市民デモ勃発 | ||
2014年 | 1月 | 中国である信託商品が利払い困難に、政府が元本保証 | |
3月 | 中国の太陽光パネル大手の社債がデフォルト | ||
6月 | イラク第2の都市モスルをイスラム国が制圧 |